日本とヨーロッパを結んだ欧亜国際連絡列車
明治32年(1899)、敦賀港は開港場(国際港)の指定を受けました。その後、ロシア国内を横断するシベリア鉄道が全線開通すると、敦賀-ウラジオストク間の定期航路が開設され、ヨーロッパへの最短ルートとして脚光を浴びます。さらに、明治45年(1912)には、東京の新橋-金ヶ崎(敦賀港)間にウラジオストク経由のヨーロッパ行き直通列車「欧亜国際連絡列車」が開業しました。1枚の切符で東京から欧州へ行くことができる国際列車の運行により、敦賀港は世界への玄関口になっていったのです。
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金ヶ崎桟橋に接岸する汽船(昭和初期)
敦賀港はフランスのパリまで通じる港として、欧亜国際連絡列車を利用する外国人や日本人渡航者でにぎわいました。
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路線図
敦賀から海を越えてヨーロッパへと結ばれた鉄道は、1枚の切符で東京の新橋からパリまで行くことができました。
人道の港・敦賀と命のビザの物語
第二次世界大戦中の昭和15年(1940)、ナチスドイツからユダヤ人難民を救うため、リトアニア領事代理だった杉原千畝は外務省の判断に背き、「命のビザ」を発給しました。敦賀港は杉原のビザで救われたユダヤ人が上陸した港であったため、「人道の港」とも呼ばれています。
当時の敦賀の人々は、銭湯を無料で開放したり、りんごなどの果物を配ったりして難民を温かく迎え入れました。そのときのユダヤ人の感謝の言葉が、今も敦賀に残されています。




